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人を信用できない

  • 市川里美
  • 9月5日
  • 読了時間: 2分

「人を信用できない」という訴えは、何を表しているのだろうか。まず考えるのは、「そう、そんなにたやすく人を信用してはならない」「その感覚は至極当然のもの」ということ。〇〇詐欺が横行する世の中。「まずは、疑ってかかる」ことは、自分の身を守るためには必須のことではないか。しかし、一方ではたやすく人を信用できないと、生きることがとても苦しくなるだろう、とも考える。


たとえば、6歳の時。初めて入る大きな社会、小学校に入ったときはどうだっただろうか。先生、クラスメートはまったく信用できなかったであろうか?緊張はしたし、怖くもあったけれど、すぐに友だちはできて、先生には注意を受けながらも、頼ることができたのではないか。もっと小さいころ、1歳にも満たないころの人見知りという時期を過ぎれば、知らない人からの声掛けにも怖がらずに応じることができた。大人になってはどうだろうか。買い物をするとき、医者にかかるとき、働くとき、初めての人を疑ってかかるということはわずかではないか。もちろんわずかながらに、その人の性質を見抜いて、「あまり信用できないかも」という感覚はあるだろう。だが、「まったく信用できない」となれば、日常生活はままならなくなってしまう。いつも警戒し、身構え、仮面をつけ、安心とはかけ離れた毎日を過ごすこととなる。「たやすく人を信用してはならない」のではあるが、信用できないと生きることに困難が生じる。


 こう考えると、人はたやすく人を信用できるという能力をもっており、楽に生きることができるのだろう。「人を信用できない」という訴えには、この能力(おそらく、「基本的信頼感」と心理学でいわれるもの)の乏しさがある。信用しようとしても、警戒心が先立つ。「信用できるか?」と石橋を叩くようにつきあう。すると、信用できない部分が浮かび上がり、「やはり信用できない」と振り出しに戻される。


 だが、「人を信用できない」という訴えには、心のどこかに「信用できる」という感覚がすでに生まれているということだとも思う。「信用できる」という感覚と対比してこそ、「信用できない」という感覚がわかるのだから。この心のどこかにある「信用できる」という小さい炎をやさしく育てていく。一人で育てるのではなく、人とのあいだで育てていく。育てられる。

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