• 市川里美

エスカレーターに運ばれる 自己主体感について

 東京には多くの地下鉄が通っています。古くからあるものは地下の浅いところを通っているようですが、時代的に新しめの大江戸線や副都心線はかなり深いところを通っていると聞きます。地下深くを走っているものに乗る際には、長い長いエスカレーターを利用しなければなりません。「これでもか」というほど長い時間乗らなければならないものもあります。その様子を俯瞰すると、人がエスカレーターに運ばれているような風景にも見えてきます。自分自身も同じです。自分が自らの意思で乗っているのか、それとも運ばれているのかわからなくなってきます。自分がただ運ばれるモノのようにも思えてきます。

 道路の信号でも同じ感覚になることがあります。信号が赤の時、自分の意思で止まっているのか、それとも信号に止まらされているのか?と、ちょっと曖昧な感じもします。信号が青になれば渡りますが、自分の意思で渡っているのか、それとも青という信号の合図で渡らされているのかとも思えます。

 

 自分が自ら行なっているという感覚を「自己主体感」といいます。自分にとって最適なものを選択した時、この自己主体感が生み出されるようです。ただ、私たちはほぼほぼ全てのものについて、自分で選んで、自分自身が行動しているという感覚を持っていますが、実際は少し違うようです。自己主体感なく行っていることも多くあります。全てについて自分を意識しては脳がオーバーヒートしてしまいます。しかし、それが病的になってしまうこともあります。


 オンラインゲームやS N Sについても最初は自分からやっており、しっかりとした自己主体感覚が感じられていると思います。けれども、いつのまにか取り込まれて「なんか見てしまう」「いすに座るとまずはスマホを見る」「手からスマホを離せない」ということになってしまう。主体を乗っ取られた感じです。このような状態がもっと進むこともあり「ゲーム依存症」という新しい診断名が生まれています。


 思っている以上に、我々の「自分」という自己主体感は脆いもののようです。他者の考えに乗っ取られることや、他者の感情が入ってきてあたかも自分がその感情を持っているように思ってしまうこともあります。「自分は」「私は」を主語にして思考することや、人に話すことが必要なようです。日記もよいのでしょう。特に、日本語は主語を曖昧にする言語ですので、より一層意識することが必要かもしれません。


 カウンセリングで「話す」とはこの自己主体感を取り戻すことでもあるように思います。