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市川里美

「ふつう」という幻想 

「ふつう」ということばにはちょっと厄介な感じを持つ。「あたりまえのこと」「特に変わっていない」「まれではない」というのが辞書的な意味である。しかしカウンセリングの中で出てくる「ふつう」は、「私はふつうの人と違うのではないか」「ふつう、こういうことで相談に来ないのではないか」あるいは「ただ、他の人と同じようにふつうになりたい」という使い方をされる。「ふつう」が「大多数の人のレベル」といった評価的な意味合いをもっている。「ふつうはそうでしょ」「ふつうじゃない」という使われ方もする。「ふつう」であるか否かは「正常」か「異常」という判断基準ともなって、この世の中での生きやすさを示すものともなっていることがうかがわれる。

私たちが生きているこの世では「ふつう」が人の営みの前提となっているところがある。衣類のサイズ、家具の大きさ、騒音基準などは大多数の人の身体の大きさや感覚を「標準」として規定されているようである。進学率、年収、貯蓄額も「平均」や「最頻値」が「ふつう」ととらえられているのではないか。


医学的なエビデンスというものも同様ではないか。「大多数の人に効果が認められる」ということが「エビデンスがある」とされ、その治療法が有効である根拠となる。しかし、万人に効果のある治療法は見当たらない。せいぜい80%、あるいは統計的な有意差がでれば「有効な治療法」とされる。では、あと20%の人にとってはその治療法はどういう意味をもつのか。無効であったり、逆に有害にもなりうる。このように考えると、医学的エビデンスでさえ、「大多数」=「ふつう」を前提として取り扱っている。そして、人の思いの中にも、「ふつう」で「みんなと同じ」であることが安心であり、それを求めて「ふつう」がまぎれもない“正しい”ものであるという認識を強めていく。

 

この「ふつう」から外れたときは多少なりともショックを受け、不安になる。「ふつう」から外れて少数に入るとき、生活上の支障は大きくなり、心理的精神的にもかなりの負担を強いられることとなるのがこの世の中ではないか。「ふつう」でない自分はその存在も世の中には承認されにくく、疎外された感覚が増幅されていく。「どうしてふつうではないのだろう」と「ふつう」になれない自分自身を否定していくことともなる。もしくは、できるだけ「ふつう」を装うことに努め、本当の自分を殺していくことにもなろう。「ふつう」が暴力となっていく。


本当は、人は誰も個性的で「ふつう」という枠組みには入らないのである。「ふつう」は空に浮かぶ雲のように、近づいてみれば水滴ひとつぶひとつぶであり、なんのまとまりもないものなのだろう。「ふつう」は幻想ではないか。この幻想にふりまわされていないか。ただただ安心したいがために「ふつう」を求めすぎていないか。そこに気づくと、心は居場所をみつけられるかもしれないと思うのである。

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